“Liberté d’importuner” : Catherine Deneuve s’excuse…



“Liberté d'importuner” : Catherine Deneuve s'excuse auprès des victimes de viol

#MeToo ムーヴメントに対するフランスの反応へのコメントが難しい理由 - *ここ*も勘定に入れて下さい;)

これ、どうしようかなー、めんどくさいなー、ややこしいなー、
と思い、パスしようか、と思ったのですが。。(笑)

ワインスタイン以降のハリウッド女優たちからの反セクシャル・ハラスメント・ムーヴメントに対する、フランスの反応は、
すでに日本でも様々に伝えられていると思いますが、
問題のLe Monde紙のtribuneがこちら:

« Nous défendons une liberté d’importuner, indispensable à la liberté sexuelle »

この論説に賛同署名者として名を連ねたことへの批判に対するCatherine Deneuveの弁明が↑↑のリベラシオン紙、なのですが。。

アメリカ側から、Salma HayekのNYTへの寄稿を紹介した経緯から、一応、クリップはしておきますが、
僕としては、まぁ、フランス語が読める人は、自分で読んでみて下さい、というにとどめたいです。。(笑)

というと、露骨に無責任、逃げの一手、というのがもう、見え見えですが(笑)
これは、なかなか、難しい。

タイトルになっているとおり、
つきまとって困らせる自由、
いい寄られてこそ、初めてNonという自由もあるのである、
などと、糾弾される男性側に一見都合の良さそうなことを、いろいろっているのも確か、です:
レイプは犯罪だが、しつこいナンパや不器用さは罪ではない;
男たちはただ、膝がしらを触ってしまったり、キスを奪おうとしたり、*親密な*話をしようとしてしまっただけなのだ。
プロジェクト・チームを率いたと同じ日に、女性は男性の性の対象となる喜びを味わうことができる。
自立した女性は、電車の中で触られたくらいで傷ついたりしない、とまでいっている…
…と、こういう風に、こういうとこだけ全文から切り抜いて並べると、いかにも都合が良さそうなのですが(笑)

とにかく強い論調で、激烈、といっていい個所も多々あります;
現在の反セクシャル・ハラスメント・ムーヴメントを全体主義に擬してさえいますね。。
論点も、様々、あれもこれも、これでもか、と出してくる。
この議論を、をひとつひとつ精査して、点検していくのは、大変です。

。。つまりね、これは、フランスの女のひとの大変さ、なんですよね…(笑)
で、フランス語がちゃんと読めれば、たとえフランス人の女の子とあまりデイトしたことがなくても、
うーむ、こりゃあ、大変だな。。
という感じは、ひしひしと伝わってくるんじゃないか、と思うんです(笑)

だから、確かに、一見男に都合の良さげなことはいろいろといっている、
しかし、それをいっているのが、フランス人の女性である、ということを勘定に入れなくてはいけない(笑)

フランスの女性は、強いんです。もちろん、比較の問題ですけど、
パリで日本人の女性が、あれほどモテるのはなぜか。
7つくらいパッと理由が浮かびますが(笑)
そのうちのひとつが、とにかく日本人の女の子はあたりがソフト、
もちろん、本当の意味での強さは判りませんよ、
でも、あたりからいえば、フランス人の女のひとに馴れているパリジャンから見れば、
日本人の女の子たちっていうのは、もう、とろけるように優しくて、可愛いんじゃないでしょうか(笑)

そしてこのあたりを勘定に入れると、
この論説に安易にコメントすることは、難しい、、、
というのが、とりあえずの感想です;)

参考までに、以下は上に引いた、一見男側に都合の良さげなことの一部、原文ですが、文中に戻してみると:

Surtout, nous sommes conscientes que la personne humaine n’est pas monolithe : une femme peut, dans la même journée, diriger une équipe professionnelle et jouir d’être l’objet sexuel d’un homme, sans être une « salope » ni une vile complice du patriarcat. Elle peut veiller à ce que son salaire soit égal à celui d’un homme, mais ne pas se sentir traumatisée à jamais par un frotteur dans le métro, même si cela est considéré comme un délit. Elle peut même l’envisager comme l’expression d’une grande misère sexuelle, voire comme un non-événement.
En savoir plus sur http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html#kGvLrtq0IAuu2Y0e.99

…フランスにホモの男性が多くなってしまったのは、女性の権利が強くなった、当然の代償だ、
といい切ったパリジェンヌがいたのですが、こういうのを読むと、
一理あるかも。。と思ってしまいます;)

yuichihiranaka:
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…あの夏、ベルリン。。
2014年、ベルリン。文学、そして旅の記憶のラビリンス…。
ようこそ、旅行記と文学論の、ナラティヴな“街の迷路”へ。

『ベルリン日和』
“A moment.” …それは《気づき》の時。

作品についてのコメントはこちら

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/169997366132

Comme une fille… Double standard moins évident qui complique…



Comme une fille…

Double standard moins évident qui complique les choses…
Quellques réflexions sur la situation japonaise à ce propos.

僕はアーティストとしてのアイデンティティから、常に多数派ではなく少数派、体制ではなく非体制、強い者ではなくより弱い者にアイデンティファイし、個人主義を擁護するのがより自然、
そうでなければ、全体の構図を見誤っているのだ、と思っています。

そういうわけで、この広告をフランスのTVで見た時は、やはり印象づけられました。

Always #CommeUneFille https://youtu.be/uRjXDixe15A

*女のコみたいに*、、、
女のコみたいな走り方、投げ方、打ち方、etc., etc.
つまり、ちゃんとできてない、という悪い意味。
そうではなくて、この表現にポジティヴな意味を持たせよう、という意見広告です。

女のコみたいに、例えば走る、というのは精一杯走ること、
女のコみたいに、というのは自分らしくあること、
だって私は女のコなんだから、ということばには、
ちょっと、ホロリとするものがあります。

少し以前のこちらの広告も思い出しました:

Ban Bossy http://bit.ly/1TzWGYy

bossy、stubborn、pushyという、女のコにイニシアティヴをとらせず封じ込めようといういい方を廃そう、ということですが、
bossyはbossっぽい、親分気取り、というところでしょうか。
なんといっても印象的だったのは、このBeyoncé。

“I’m not bossy: I’m the boss!”

まさにはまり役、という感じがしました;)

3月8日はInternational Women’s Day、とのことで、
翻って、日本でのフェミニズムの社会への広がり、ということを考えると、
なかなか難しいものがあるようにも思います。
これは、先ほどの、ちょっとホロリとする、というところにもつながるのですが、
日本のように、男であっても自分の考えを控え、周囲をうかがい、
人と違っていたり、違ったことをして失敗したら、ここぞとばかり、吊るし上げられ、袋叩きにされる。
そういう見せしめと、恐怖、それだけの力で、なんの理念もなしに、社会の枠組みを維持しようとしている。
そんなこの国の中で、さらに女のひとであれば、
ますます、フェミニズムといった世界の流れからは乖離してしまう、
距離を置いてしまって当然ではないか、というようにも思うのです。
状況にあわせて長いものに巻かれる、それこそがいちばん*賢明*なことなのだ。
男女を越えて日本人は、絶え間なくそんなメッセージを刷り込まれ続けている。。。
殆んど*洗脳*に近いですよね;)

もうひとつ、こういう論争的なヴィデオも目に留まりました:

Une campagne dénonce le sexisme dans la pub http://bit.ly/1TzWZT0

これは僕は80年代からずーっといっていることですが、
たしかに女性の性の商品化、という問題はひとつ大きくある;
しかしその根っこには、人間それ自体の商品化、という問題もあるわけで、
たとえば、この世の中のおよそ全ての男性が、人格など社会からは問題にもされず、ただの会社の仕事をする機械として、
能力や体力や時間を給与と交換しているわけでしょう。

ましてや現在のクラウド商法(*こちらを参照)で
*消費を掘り起こす*ことが素晴らしい!とされる現代は、
社会のほとんどの人たちが、高度に再編成されたある種の年貢を納める封建農奴、
実質、*奴隷*にさえ近い状態におかれている。。。

そしてそれに異を唱えると…もはやこの社会の中には身の置き場もない、というようなことになっているのではないでしょうか。

女のコが女のコであること。女性が女性であること。
自分が自分であることは、常に闘いでしかないのでしょう。
愚かしく、損ばかりする、勝ち目のない闘い、かもしれません。
しかし僕は、そこで闘う人たちに、その勇気に、やはり胸を打たれるのです。


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SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/140625920595