Shover, grabber and cheater. There could be a fine line: this…



Shover, grabber and cheater.

There could be a fine line: this is not what most men could do once in a while. I’ll explain the difference, not for women, but for men who don’t really get it.

大統領在任中は罪に問えない、との持論をTに買われw 米最高裁判事に任命されつつあるKavanaugh(笑)

30数年前、この人が17才の時、無理やり押し倒されたが未遂に終わった、という一女性(当時15才)の告発で、絶対確実のはずの任命が揺れていますね。

この報道に、高校時代といえば、自分も女のコを押し倒してしまったことがある…と冷や汗をかいた男性も多いのでは? でも、ここには細くともはっきりとした違いがある、と思うのです…。

Go! Go! Girlsという大長篇ナンパ小説の元著者として(笑)
その押し倒すと、この押し倒すは、実は押し倒すがまったく違う、
という非常に判りにくい話を書いておきます。

むしろ男性の皆さんに読んでいただき、*静かな共感の輪*を広げていきたい、と思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします;)

こちらにて。Shover, grabber and cheater. - medium.com/@yuichihiranaka

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/178509316457

なんなんだ、このノリ、凄くない??。。 via Cristian Budu, Clara Haskil Prize 2013…

Cristian Budu


なんなんだ、このノリ、凄くない??。。

via Cristian Budu, Clara Haskil Prize 2013 | Chopin: Préludes, Op. 28 - XVI. Presto con fuoco - YouTube

ブラジルのピアニストらしいが、やっぱりブラジルのミュージカリテは凄いのか。。

Cristian Budu - Chopin & Beethoven amazon | hmv.co.jp


なにしろ、名前もブードゥ、ですから。。w

もう、踊り出すようです。。;)

**HPでこの春大ショパン特集をポストしたところなので、このディスクも紹介しないつもりでしたが、Mediumポストの関係で、急遽こちらにクリップしておきます**

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/178141054386

何故シューベルトにヴィデオ・クリップが必要か。 Why Schubert needs promotion video?…



何故シューベルトにヴィデオ・クリップが必要か。

Why Schubert needs promotion video? I’ll tell you why. — なぜかフランスでも日本でもほぼ無名、アメリカの21世紀型スター・ピアニスト、シモーヌ・ディナースティンに関する簡単なイントロダクション。

***Mediumポストより転載:全文はこちらをご覧ください!***

アマゾンのCDチャート、といえば(前回のポストW杯で狂喜乱舞のフランス-その時CDチャート1位はコルトレーンだった参照)

こちらはamazon.com、さすがに最高4位だったようだが、総合チャート(cbsnews.com)、クラシック・チャートではビルボードで堂々第1位を獲得した2007年のデビュー盤以来、アメリカでは新時代のスター・ピアニストとなったシモーヌ・ディナースティン Simone Dinnerstein 。ラジオで新譜が出ると紹介されていたので、ふとyoutubeもみてみたところ、2011年のアルバム、Something almost being saidのプロモーション・ヴィデオが目を引いた。

これはやはり、クラシック音楽のプロモーション・ヴィデオ、これまでに観た中では——そもそもそう数多くは作られていないにせよ!——最も素晴らしい仕上がり、といえるのではないだろうか:

Simone Dinnerstein - Something almost being said: Music of Bach and Schubert - EPK

…流れているのは、シューベルト。シューベルトの音楽が好きな人は、いまさらプロモーション・ヴィデオなどいらない、と思うかもしれない。しかしこれまであまりシューベルトのピアノ曲に興味がなかった、という人は、この映像をみて、その魅力に気づく、というようなこともあるかもしれない。

周知の逸話ではないか、とも思うが、フランスでも日本でも意外に有名ではないようなので、ディナースティン、そのビルボード1位のデビュー盤というのが自主制作、しかも演目はバッハのゴルトベルクだった、といえば、初耳なら「えーっ!」と驚く人も多いはず。

当然このデビューの経緯はいまや“伝説化”されつつあるが、これにはさらに先立つ伝説がある。そう、もちろんグレン・グールド、55年のデビュー盤だ。LP時代に不可逆的な影響を与えた1枚として、当時を知る人はいまだにその衝撃を語ろうとするし、より若い世代にもグールドを現代のカリズマティックなアイドル、アイコニックな存在と捉える人は少なくないのではないか。

いうまでもなく、このグールドのデビュー盤こそ、当時は地味な作品と思われていたゴルトベルクを颯爽と弾きこなし既成の印象を鮮やかに打ち壊したものだった。以来ゴルトベルクは人気曲になったが、全ての演奏がグールド盤と比べられることにもなり、結局81年にグールドが同曲を再録音して今日に至るまで、商業的な成功を収めたピアニストの中に、ことこの曲、またバッハのピアノ演奏に限っては、グールドの呪縛から逃れ得た者はひとりとしていない、といっても過言ではないだろう。

それだけでも、ゴルトベルクをデビュー盤に(しかも自主制作盤に!)選ばない理由はもう十分以上にある。NYTの当時の記事の書き出しが、そのあたりを巧くまとめている:

“大人になったらピアニストになりたければ、小さい時から始めなくてはいけない。ジュリアード音楽院を中退してはいけない。コンクールで優勝しなくてはいけない。30を過ぎて、マネージャーもいなくて、自分でお金を集めてレコードを録音してはいけない。そして絶対にニューヨークのデビュー・リサイタルのプログラムに、ゴルトベルクを選んではいけない。シモーヌ・ディナースティン、 34歳、彼女はそんなルール・ブックの全てにことごとく反することで、成功を掴んだ。

…まぁ、ざっくり訳、ですが;)

アメリカでは、一度失敗した人が成功を勝ち取る、という*物語*は、無一文から夢を叶えることやサヴァイヴァルなどと並んで、アメリカン・ドリームという社会的な“神話”を維持する上で不可欠なため、一クラシック・ピアニストという以上にディナースティンが特に大歓迎された、という部分はあっただろう。(ちょうど日本のニュースで、本当に*思い*が強かったからこそ、その*思い*が届いて実現が叶った、のかも…みたいなお話が、飽くこともなく日々churn outされているのと同じ、ですね;)

しかし、正確なことはたとえば上述のNYTの記事などを読んでいただくとよいのだが:Simone Dinnerstein—How Do You Move a Career Into High Gear? By Breaking the Rules—The New York Times

4歳の時ピアノを買って欲しいというが、父親は画家で音楽に疎く、代わりにリコーダーを貰い、結局ピアノを始めたのは7歳と、プロになるには致命的に遅く、中学の時ロンドンでいいピアノの先生に出会うが遠くに行くには若すぎると反対され、18で結婚してジュリアード音楽院も中退、コンクールを受けれど通らず、ピアノを教えながら老人ホームや刑務所で演奏し、ついにオーディションに通ってデビュー・リサイタルを開ける話になったのに妊娠に気づいて子育てを選択、そこからグールドの演奏で好きになったゴルトベルクを自分なりに勉強し始め、小学校教師の夫や犬と暮らしながら、出産後、家族や友人からカンパを集め、自費でレコーディング、自主デビュー・コンサート…

彼女の人生の“あらすじ”を、ここでこうざざっとまとめておいたのは、そんな全てが、上のプロモーション・ヴィデオに詰め込まれているから。

最初からもう一度見てみてください。ピアノと息子の笑顔に始まり、画家のお父さんもいる、お母さんもいる、子どもの頃からの写真、夫もいる、家族の歴史があり、笑い声が聞こえ、そして最後に再び、音楽を生み出す彼女のchubbyな両手に帰っていく…

結果的に、たとえパラテクストを知らなくても、十分感動的な映像になっているのではないだろうか。

 ・ ・ ・

さて、肝心の音楽、だが;)

まずこれまでゴルトベルクをほとんど聴いたことがない、どこかで聴いたことがあるかなぁという程度、という人は、普通にいきなり、その問題のデビュー盤

Simone Dinnerstein — Goldberg Variation

これを聴いたらいいと思う。

またバッハが大好き、好きな音楽はゴルトベルク!!という人も、じゃあさらにもう1枚どうですか?ということで、素直にこのデビュー盤を真っ先に聴いてみるといいだろう。

しかしあるいは問題なのは、むしろある程度のレフェランスはあるが、バッハ・マニア、ゴルトベルクの大ファン、というわけではない場合。

いきなり「いやー、ゴルトベルクの新しい録音があるんだよ」とかいわれても、やや腰が重いのではないだろうか。だって、何しろゴルトベルク。 *名盤*なら、もういっぱい聴いたよ、というのが率直な心境、だろう。

そこでひとつ提案だが(笑)…

***続きはMediumへ!!***

Simone Dinnerstein — Bach: Inventions & Sinfonias CD | mp3

Something Almost Being Said: Music of Bach and Schubert

#クラシック

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/177161848196

…このNY Dailyの1面の風刺漫画、いつか歴史の教科書に載ったりして。。;) 第1章 21世紀初頭の国際社会〜 第3節…



…このNY Dailyの1面の風刺漫画、いつか歴史の教科書に載ったりして。。;)

第1章 21世紀初頭の国際社会〜
第3節 「アメリカ帝国主義(パクス・アメリカーナ)の終焉」

…(笑) 第1節は 9/11〜「対テロ戦争」とアラブの春
ということで、西側社会とインターネットの希望を描き、
第2節はシリア内戦、ISの台頭と難民爆発、新ロシア南下政策から2016年のパリ・テロまでの西側民主主義文明の衰退を描くと、どうでしょうか;)

今回アメリカのジャーナリストが(さすがにFoxNewsも含めて)
怒っているのは、トランプがサミット後の記者会見でいつものお決まりの論法を使った、
つまり、批判を受けた時に、でもあっちにも悪い奴はいるじゃないか、あっちのほうが悪いじゃないか、と人の話にすり替える、という中学生的なものですが;)
それを今回、
ロシアが悪い悪いっていうけど、アメリカだって悪かったじゃないか、とやってしまった、
つまり、外国を侵略し、報道を規制し、選挙を操作し、外国で人を暗殺する、そんな国とモラルの点で同等に扱った
それがアメリカ人の逆鱗に触れた、ということだと思います。

いうまでもなく、トランプに与するつもりはまったく僕はありませんし(笑)
フランス人の友人にも、時々お前はアメリカ人だからなぁ…と嫌味をいわれたりするくらいで、アメリカや英語には、おそらくかなり親しいほうだと思うのですが、
今回の件はしかしふと、いや、それはそれでもいいかもしれない、、などと思ったりもします。
その心は(笑)
アメリカって、いつでも自分が正しい、っていう
まぁ、はっきりいって子どもじみたところがあって、
そこがアメリカらしいんだけど、アメリカ人と付き合っていても、ちょっと疲れちゃうところでもあった、
だいたい、いつも自分だけは絶対間違っていない、なんて、
僕が子どもの頃の日本共産党みたいなもんで、
やっぱりどこかちょっとおかしい(笑)

これからアメリカと、アメリカ中心で進んできた西側世界がどうなるかは大問題ですが、
長年の1アメリカ贔屓としては(笑)
もしかしてアメリカは、こうして図らずも、肩の重荷を降ろして、ちょっと楽になったりするのかね。。
などと思ったりもするのです…;)

(Image via Après le discours de Trump aux côtés de Poutine à Helsinki, les démocrates et plusieurs républicains scandalisés - huffingtonpost.fr)

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…あの夏、ベルリン。。
2014年、ベルリン。文学、そして旅の記憶のラビリンス…。
ようこそ、旅行記と文学論の、ナラティヴな“街の迷路”へ。

『ベルリン日和』
“A moment.” …それは《気づき》の時。

作品についてのコメントはこちら

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/176019152614

Mediumに初ポスト;) …えーっと、Mediumというので面白い記事を読んだので、このプラットフォームの長所が何なのかよく判…



Mediumに初ポスト;)

…えーっと、Mediumというので面白い記事を読んだので、このプラットフォームの長所が何なのかよく判ってないのですが、とりあえず使ってみたら判るかな…という安易な考えで、とりあえず記事を1本書いてみました(笑)見てみて下さい! http://bit.ly/2te9tJn

実はこのフィラデルフィア市長のコメント、というのにも、考えさせられるものがあったのですが、
この春は、思いもかけずアメリカン・フットボールに関係したポストをtwittertumblrFBページ、それぞれ発で3セットも出しましたので、
またアメフト、、というのもありまして、、、
また、話題自体も、これまで僕のエッセイ集やソーシャルメディアを読んで来てくれた方には、基本的にはもう十分クリア、説明不要な考え方でもあり(笑)
ちょっと、うーん、どうしようかな。。と思っていたのですが、
新しいサイトであれば、また新しく読んでくれる人もいるかもしれない、と思い、するするっと書いてみました(笑)

というわけで、Medium本来の強みなどはまだはっきり判らないのですが、

…初期のtwitterで長文の書けるもの、という感じですが。。
本来、それはtumblrがやろうとしたことけど、tumblrはさらにテクストだけでなく、写真やヴィデオ、何でも流せる、ということもあり、
その上twitterがそこへ負けじと高機能化、写真やヴィデオに対応したため、構図がなんだか判らなくなってしまいましたが。。

気になっていたことを書いておくことができたので、まぁ、よかったかな、と思っています;)

Mediumの初ポスト、どうぞこちらからご覧ください:

http://bit.ly/2te9tJn

拍手ボタンなどもありましたので、読んでみて面白かったら、読んだよ!ということで、押しておいてくださいね。
よろしくお願いいたします。

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/175202197480

Go Blue! Go! または、どうして日本人は議論ができないのか? Did you hear that one of…



Go Blue! Go! または、どうして日本人は議論ができないのか?

Did you hear that one of the hottest topics in Japan this spring is college football? Yes. College football (in all caps, if needed).
Ok. Let me get that straight.
Have you guys, in the first place, ever seen at least one college football game in your whole lifetime?
Oh, come on. Give me a break!
(incidentally, the blue on offense is my alma’s ;)

以下は週末、公式twitter @yuichihiranaka へのポストよりのまとめ、ですが:

…悪事を働いた人が法律にもとづき裁かれるのは当然だし、原因の究明も必要でしょう。問題の責任者がそのまま権力や影響力を維持したり、私腹を肥やして良しとされるなら、社会のモラル(モラルとは、フランス語ではまぁ、やる気・士気、という意味ですが…)が下がる、社会正義、教育的観点からも問題がある。

しかしねぇ。。。
罪を憎んで、人を憎まず、ともいうでしょう。
目的は、責任を取らせて、将来的にも問題を解決する、ということで、問題を起こした人たちの(仮にそれが本当に悪い人たちであったとしても、真の目的は;)面目を潰して恥をかかせることではないでしょう。

理性や議論、ロジックではなく、情緒や感情をもとに、数の力で押し潰せるものを押し潰す。それは、リンチです。
社会正義は実現すべきだが、その方法が、リンチ以外にはないのでしょうか?

…全ては情緒と共感でしかなく、いい勝った者が勝ち、理非ではなく、数、力で勝った者が勝ち、というところにこそ問題はあるのではないでしょうか。
例えば、人を脅して黙らせる、などというのは許しがたい卑劣な行為ですが、その人を逆に脅し返して黙らせることができたら、それでいいのか。

仮に*正しいcause*であったから今回はこれでよかったといえるとしても、同じ仕組み、つまり一種のリンチで、人種攻撃やいじめ、異分子の迫害も起きる。
もっといえば、反戦・平和主義も黙らされ、戦争になだれ込むのも、これとまったく同じ仕組みではないでしょうか。
そもそも今回の問題自体が、力で人を黙らせコントロールしたところに端を発しているはずです。

そんな仕組みそのものに違和感がなく、むしろ当然のこととして、逆に制裁にも用いられているのだとすれば…フェニックス問題それ自体より、もっと恐い、と思います。
Go Blue! Go! via Instagram Post by amft_yn - Deskgram
(写真はイメージです;)

* * * *

フランス人は議論好き、というのはよく知られていると思います。
実際本当にことばの国、フランスでは、ことばで自分を表さなければ、存在しないも同然、という場合もふつうにあります。
しかしそんなにことばをぶつけ合って、どうして社会が成り立つのか。
何事も相手の気持ちを推し量り、角が立たないよう話すことを子どもの頃から求められる日本人、
そして議論をしようとすると、すぐに感情的な口論になってしまう日本人として(笑)
パリに移り住んだ当時、僕が最も関心のあった、知りたいと思っていたひとつがここ、でした。

そこで注意してみていると、
…ああ、もちろん、庶民はダメですよ、力強くまくし立ててるだけで、内容は8歳児並み、 手近にある、投げられそうなものならなんでも掴んで投げてくる、
とにかくシュートってやつを決めればいいんだろ!と打ちまくり、半分近くが議論上のオウン・ゴールになっている…という例も、冷静に見てるとままあります(笑)
フランス人のインテリは、議論をする時、最終的には、相手をいい負かさない、
相手の面子を完全には潰さない、
勝負あり、白黒ついた、と判断したら、そこで投了、
相手の逃げ場を僅かに残し、面目を守ってやる。
…これ、たしかHanakoにも書きましたよね??
いわば武士の情け、ですね(笑)
この暗黙のルールが守られることが多い。
考えてみれば、当然ですよね。じゃなかったら、もう殺し合い、です(笑)

ひるがえって、現在の日本はどうか。
今回の例で見てみると、
フェニックスの指導者は、全て自分の責任です、と認めているわけです。
基本的には、その時点で投了、です。
あとはもう、ふつうに考えれば判る、反則をするよう仕向けたのは、指導者です。
役職を解き、権力を剥奪、経済的にもペナルティを与え、社会的尊敬も失う。
こういう、実質的な制裁を受けてもらう。それでいいんです。
ほんとは指示をしたんですか、どうなんですか、などと問い詰め、いわば自供を取る必要は何もない、だって、常識で判る範囲のことですから(笑)

ケガをさせられた選手と、させた側の謝罪や賠償の問題は、双方で解決すればいいわけですし、
必要なら警察が介入してもいいし、司法の判断を仰いでもいいでしょう。

選手全員に罪はないとしても、フェニックスはひとまず廃部。
辛いでしょうが、当面他校に合流するか、クラブ・チームで頑張り、卒業後、社会人でライス・ボールに帰ってきてください。

相手の選手を試合に出られなくさせたら得だと思っていたら、そのせいで自分たちが出られなくなってしまった…
これではじめて割の合う、実質的な制裁、です。

こういった実質的な制裁があれば、そこにさらに精神的な制裁まで加える必要はありません。
全て自分の責任、と認めた時点で、本来なら、参りました、といっているも同然です。
それをさらに押さえつけ、どういったのか、いわなかったのか、などと追い詰めていけば、
それは腹を切れ、といっているようなもの。
そうなれば、嘘だってつくでしょう。
自分が悪かったといっているのに、その上嘘までつかされたら、そうでなくとも歪んでいたかもしれない(笑)心もますます歪みます。
恨み骨髄、ともなるでしょう。
そこまで人の面目を潰し、恥をかかせる必要は、ほんとは何もないのです。
…これが、フランスのインテリの議論を見ていて、
僕が考えたことです。

表題の、なぜ日本人は議論ができないか、
その理由はもちろんこんなことに尽きるものではなく、
そこには言語学的な、日本語の性質、というものが大きくあるということも、小説文の分析のためにナレーション理論を勉強していくなかで判ってきましたし、その辺りは、文法的にもかなり説明がつくのではないか、と思っています。
…だから、表題は、むしろ、なぜ*日本語では*議論ができないか、のほうがよりいいかもしれません;)

しかし、この、*相手の面目を潰さず、プライドを保ったまま、潔く退場するチャンスを与える*、ということも、議論が必ず感情的な口論に終わってしまう、という事態を避けるための小さなルール、作法のひとつ、だと思います。

罪を憎んで、人を憎まず、
とtwitterポストには書きましたが、
国民に嘘をつき、それをカヴァーアップしようとした政治家についても、僕は同じように思います。
問題は、はい、私は嘘をついておりました、と自白させることではない。
だって嘘をついてることは、誰から見ても歴然、です(笑)

首根っこをつかまえて、すみませんでした、私が悪うございました、と無理やりいわせることに、どんな意味があるでしょう。
小学生の反省会じゃないんだから!!

ただ、責任をとって、退職したいただく。
退職金も返納していただき、自分たちが是認していた、国民年金の支給額で実地に生活していただく(笑)

側から見て、やっぱりあの人は間違っていた、まぁ、あの人もね、つまらんことをしたもんだよね…とふつうに理解されるようであれば、
もうそれで、ひとまずはいいでしょう。

しかしそこまでは、確実に持っていきたいところ(笑)
要は、引き際を心得、とどめは刺さない。
リンチはしないし、血祭りにはあげない(笑)
それでこそ、
その人が多少なりともまともな人であるならば、時間をかけて、
ゆっくり反省や悔悛もできる;)
つまり、本質は、対等なひとりの人として人を遇する、というプリンシプル、原理原則を、誇りを持って守り抜く、
同じ人間同士として、互いに相手の尊厳を、最低限、尊重する、ということでしょう。

yuichihiranaka:
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…あの夏、ベルリン。。
2014年、ベルリン。文学、そして旅の記憶のラビリンス…。
ようこそ、旅行記と文学論の、ナラティヴな“街の迷路”へ。

『ベルリン日和』
“A moment.” …それは《気づき》の時。

作品についてのコメントはこちら

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自傷行為としての消費

Consumption as Self-harm 現代における消費は、自傷行為なのではないか? Spending money gradually seems like one of the...

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/171307460467

ラジオのモディアノ

« On ne peut pas ne pas être un homme du présent quand on est romancier. » #PatrickModiano...

SOURCE: http://yuichihiranaka.tumblr.com/post/166910106287

World without Prince.…プリンス。それは、ひとつの《可能性》だった。 (Photo:…



World without Prince.

…プリンス。それは、ひとつの《可能性》だった。

(Photo: http://amsterdamnews.com/news/2016/apr/21/remembering-prince-music-superstar/ )

どうしようか、と思ったのですが、やはりこのポストは立てておくことにします。

ここ数年、80年代を代表した、アメリカ・ブラック・ミュージックの巨星が奇しくも相次いで世を去りました。

いうまでもなく、Whitney、Michael、そして今回のプリンス、です。

Michaelの場合は芸歴が長いですが、いずれも'80年代の期待の星だった人たちで、夭折というわけではないけれど、まだまだこれから後半生の活躍を当然のように期待されていた、
そういう意味で、若すぎる死だった、ということも共通し、同じくその意味で相通ずる衝撃を与えた、ということもいえます。

TwitterFacebookで僕をフォローして下さっている方は、 Whitneyの時の僕の動揺ぶり、というのをあるいはお気づきかもしれませんから、
またか。。とお思いかもしれません;)
いや、WhitneyやMichealの時とはまた違う、などといっても、
うんうん、それが悲しみの本質、ってもんだよ、
と納得されてしまうのでは、とも思います;)

しかしここにはやはり、ひとつ、質の違うなにかがある。
その辺りを書き残しておきたい、と思うのですが。。。

見ていると、意外なことに、プリンスの死に対する反応は、Whitney、Michaelの時以上に、さらに深く、強いようにも感じます。

いや、意外、というのは、あれだけの大スターで、あれだけの仕事を残した人ですからおかしく聞こえるかもしれませんが、
あるいはこれは、僕のだけの個人的な印象ではないかもしれません。

僕は、プリンスは、まず音楽がすごいと思うし、同時代の天才、といえばおそらくいちばんに、プリンスを挙げるくらいでした。
けれどこうなってみるまで僕自身気づかなかったのですが、じつはプリンスという存在は、MichaelやWhitneyのような、時代を代表するスター、というよりも、
同時代の、プリンスの音楽に触れた人、全てのあり方やものの考え方に、根っこから関わってくるような、そういうものだったように思います。

様々な思い出に結びついて懐かしく、いつも頭上に燦然と輝いていた存在、というより、もっとパーソナルに、つまり自分自身の内面や、世界認識に関わっていた、といってもいいかもしれません。

だからこそ、この逝去に対する静かな、しかし思いがけないほどの熱い反応が生まれてきたのだなぁ…と思うのですが。。
このあたりがなかなか日本、というか、日本語圏というかでは、うまく伝わっていないのではないでしょうか。

CNNのDon Lemonは、プリンスの最大のメッセージは、
It’s OK to be different
だった、と簡単にいっていました。

続けてみていると、ほかにもいろいろなアンカーやゲストたちが、ばらばらに、それぞれの番組で、
ハンサムだけど、一般的なハンサムじゃない、
セクシーだけど、所謂セクシーなタイプとは違う、
歌はもちろんうまいけど、JBみたいな意味で、いい声を持ってるわけじゃない、、、
などと、口々にいっていました。

アメリカのアフリカ系の男性で、ゲイじゃないのに化粧をする人はいない、とも;)

そもそもPurple Rainに先立つControversyアルバムで、

Am I black or white, am I straight or gay?

と、マイノリティ・グループにさえ同一化できない自分、
どこにも属することのできない自分、というものを歌っていたプリンスです。

↓↓のtweetにインクルードされたヴィデオでは、そのことを、Don Lemonがやや落ち着いて(それでもまだ興奮しながら;)話しています:

…このDon Lemonというアンカーに僕が気づいたのは、当時真面目にCNN intlを契約視聴していたところ、たまたまWhitneyの逝去が週末で、まだやや控え的に、週末を担当していたこの人が、そこからほぼ丸一日に近いフル・カヴァレッジを一人でやった、
そのいちばん最後に、I hope we’ve done. 的な簡単なひと言で、全体を締めくくったのですが、それが僕には、
自分たちにできるだけのことはやり切った、そう思いたい、
というようにも聞こえ、
非常に印象に残り、以来時々気をつけて見ている人です;)

天才、といった時、典型的に僕が連想するアーティストの一人が、ピカソです ー というと、これまたごくごくありきたりなチョイスですが;)
僕がほんとにそう思ったのは、'90年初頭代に、パリのピカソ美術館 Musée Picasso (Paris) へ行ったから:いまのピカソ美術館と比べると、圧倒的に展示スペースが少なく、圧倒的に展示作品数が多かった(笑)
質、量、アイディア、全てが桁外れに、とどまるところなくどんどん溢れ出す、
ほんの数メートルの間にクロノロジックに、圧倒的なヴァライエティが、
毎年毎年、ひとつのエピックと呼びたいくらいに独自な作品群として、
しかも圧倒的な量で、めまぐるしく生まれ、惜しげもなく変わり、どれも、みんな面白い。
もう、見るものを、出し惜しみのない、いや、そんな必要全くないし、不可能な、文字通り、天才の軌跡で打ちのめすような、当時のパリの美術館でした。

こんなこと、常人にはできるわけがない。
つまり天才、というのはある種の《例外》で、
プリンスの場合も、まず音楽からいって、R'n'B、ソウル、ファンク、ロック、ダンス、クラブ、といろいろいってみても、どれにもしっくりとは当てはまらない。
それ自体が既に、まさに天才の発現、ではあるのですが、
その結果、逆に、
R'n'Bって、ソウルって、ファンクって、と説明しようとすると、
すぐに「でもじゃあ、プリンスの場合は?」という反問が浮かんでくる。
それがさらに広がって、
ブラック・ミュージック、アメリカのポップ・ミュージック、
アメリカのアフリカ系のカルチャー、アメリカのポップ・カルチャー、
と考えて行っても、「でも、プリンスは?」という問いかけが、常に割り切れない部分として後に残ってくる…。
ということは、プリンスという一人の《例外》のために、そこまでの考え、常識を全部変更しなくてはならなくなる、ということで、
それはつまり、その分、
プリンスがいた分、確実に、世界が広くなった、
ということです:
待てよ、でもプリンス、っていう場合だってある。
そう考えられる、ということは、ひとつの大きな可能性、だったのです。

もっと日常的な、コンクリートな例でいえば、
こうだから歌が上手い、こうだからダンスが上手い、こうだから格好いい、こうだからセクシー。
そういう常套的な価値観をみんな、
だって、そしたらプリンスは?
この問いかけでチャラにしてしまう。
その意味で、人の精神、エスプリを、ひとつ、確実に自由にすることのできた、それがプリンスで、

It’s OK to be different.

というのは、つまりそういうことだと思うんですね;)

また、プリンスには、出し惜しみがない、という《天才》のキーワード↑↑もほんとうによく当てはまりました。

だいたいダブル・アルバム、というのは屢々ありますが、だったら例えば3枚組、というのはすごい、もちろんさらにすごい、
でもやり過ぎというか、一体何がやりたいのか、というか《???》。。というか(笑)
常人にはやや理解しかねるところがありませんか;)

プリンスという名前を使わせなくしてしまう、などといった時期もありましたが、あれだって、とても現在世界に氾濫している目先の金儲けのためのマーケティング、ということでは理解しきれないものでした。到底ポピュラー・ミュージックをやりたい人の発想ではない。
しかもプリンスというのは、本当の自分の名前、親のつけた本名らしいですね…。

さらにアルバムにタイトルを付けない:)

…Black album、と呼ばれておりましたが;)

名前同様、アルバムタイトルを、発音不可能なものにする:)

…通称アルバム名、Love symbol;)

問題のトリプル・アルバム、というのの誕生も含め、このあたり、背景にレコード会社との契約の問題があったとも、今回の逝去の大量のアメリカTV報道の中で改めて説明されていました。
しかしそれに先立つ10数年前に、既に4枚組(!)をものしていたことを忘れてはなりません(笑)

…さらにこちらも4枚組。

…出し惜しみない天才ぶり、などと形容したくなるのも、お判りいただけるのではないでしょうか。。

音楽も、文学についてもそうですが、僕は作品を聴いたり読んだりする、ということにまず興味があり、たいていの場合はそれで満足してしまいます。
アーティストの伝記的な事実、というのにはほとんど関心がなく、基本的にどうでもいい、と思っているのですが(笑)

…アーティストについて、こういう人生を送ったからこそこういう作品を作った、というのは完全に非科学的な(論証・反証不可能な)結果論に過ぎない、こじつけの場合がほぼ、全て、です;)

だからこそかえって、というか、いざ好きなアーティストのバイオグラフィーを読むとほんとに面白いなぁ、と思います(笑)
つまり、僕にとってエピテクストは、ほんとにいい意味で《おまけ》なわけです。
そういうわけで、今回も、プリンス逝去の報道の中で、初めていろいろなことを知りました。

プリンスが、自分の、ひいてはアーティスト全般の権利を守ることに、非常に意識の高かった人であることは有名だったし、
↑↑のアーティスト名を使わせない、アルバム名をつけない、読めないアルバム名をつける、というのもみんな、特に版元、レコード会社・レコード会社との契約との闘争の姿勢の現れであることは、容易に想像がつくでしょう。

名前のないアーティスト、アルバムを、どうやってレコード会社は販売すればいいのか。
作品をコントロールする力は作品の作者、アーティストにこそあるのだという強烈なマニフェスタシオン、示威行為はないでしょうか。

こういう有名な写真もあります:

(Source: http://theconversation.com/how-princes-quest-for-complete-artistic-control-changed-the-music-industry-forever-58267 )

SLAVE=奴隷、とステージで自分の顔に書き記すのも、レコード会社、音楽ビジネスに対する痛烈な批判です;)

デジタル・コンテンツの世界にパイオニア的に切り込んだ観のあるプリンスが、デジタル時代のアーティストのviability、
どうやってこの時代をアーティストとして生き抜いて行くか、ということを先鋭的に考えていたことも、改めてよく判りました。

これではアップルとgoogleとamazonしか金が稼げない仕組みになっている、
と僕が再々くり返しているのと、完璧にidentique、同じ批判をしていた、というのみならず、
(…こちらも参照。)
その一方で、若い人がappを自分でどんどん作れるよう、プロジェクトを財政面でサポートしていた、など。

今回僕がいちばん考えたことは、ひとつ、そこで、やっぱりデジタル・コンテンツにまじめに取り組まなくちゃなぁ、ということ。
お金にならないから、とめんどくさがらずに、やはり、どうやってデジタルと関わって行くべきなのか。
これは、ほんとに考えさせられました。

でその結果、何をしたか、というと、とりあえず、twitterとinstagramを非公開アカウントにした、というだけなんですけど(笑)
どうしてそうなるかは、少しずつかたちにして行ければいいなと思います;)

どんどん登録して下さい!Twitter ; instagram

…ということで、このポストの締めくくりとしては、やはりこの1曲を聴いていただきましょう。

とにもかくにも、プリンスはこの世を去りました。
Whitney、Michaelと来ても、またしても、まったく予想していませんでした。迂闊、というほかないでしょうが、
プリンスが存在する、ということは、僕にとって、
じつはそれほど当たり前だった、
世界というのは、常にプリンス込みで、プリンスを勘定に入れて、
(つまり、先に書いたように、ひとつの可能性として)
考えられるものだったのだなぁ、といまにしてしみじみ思います。
しかしプリンスによって、プリンスがいたことによって、
確実に広げられたこの世界は、
たとえプリンス自身はこの世を去っても、
永遠に、プリンスの分、広くなって、そのままなのです。

Prince Rogers Nelson (June 7, 1958 – April 21, 2016), R.I.P.


(Source: https://youtu.be/F8BMm6Jn6oU )

初めてのプリンス、なら ベスト盤 Prince - Hits & B-Sides

#RestInPurple


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Comme une fille… Double standard moins évident qui complique…



Comme une fille…

Double standard moins évident qui complique les choses…
Quellques réflexions sur la situation japonaise à ce propos.

僕はアーティストとしてのアイデンティティから、常に多数派ではなく少数派、体制ではなく非体制、強い者ではなくより弱い者にアイデンティファイし、個人主義を擁護するのがより自然、
そうでなければ、全体の構図を見誤っているのだ、と思っています。

そういうわけで、この広告をフランスのTVで見た時は、やはり印象づけられました。

Always #CommeUneFille https://youtu.be/uRjXDixe15A

*女のコみたいに*、、、
女のコみたいな走り方、投げ方、打ち方、etc., etc.
つまり、ちゃんとできてない、という悪い意味。
そうではなくて、この表現にポジティヴな意味を持たせよう、という意見広告です。

女のコみたいに、例えば走る、というのは精一杯走ること、
女のコみたいに、というのは自分らしくあること、
だって私は女のコなんだから、ということばには、
ちょっと、ホロリとするものがあります。

少し以前のこちらの広告も思い出しました:

Ban Bossy http://bit.ly/1TzWGYy

bossy、stubborn、pushyという、女のコにイニシアティヴをとらせず封じ込めようといういい方を廃そう、ということですが、
bossyはbossっぽい、親分気取り、というところでしょうか。
なんといっても印象的だったのは、このBeyoncé。

“I’m not bossy: I’m the boss!”

まさにはまり役、という感じがしました;)

3月8日はInternational Women’s Day、とのことで、
翻って、日本でのフェミニズムの社会への広がり、ということを考えると、
なかなか難しいものがあるようにも思います。
これは、先ほどの、ちょっとホロリとする、というところにもつながるのですが、
日本のように、男であっても自分の考えを控え、周囲をうかがい、
人と違っていたり、違ったことをして失敗したら、ここぞとばかり、吊るし上げられ、袋叩きにされる。
そういう見せしめと、恐怖、それだけの力で、なんの理念もなしに、社会の枠組みを維持しようとしている。
そんなこの国の中で、さらに女のひとであれば、
ますます、フェミニズムといった世界の流れからは乖離してしまう、
距離を置いてしまって当然ではないか、というようにも思うのです。
状況にあわせて長いものに巻かれる、それこそがいちばん*賢明*なことなのだ。
男女を越えて日本人は、絶え間なくそんなメッセージを刷り込まれ続けている。。。
殆んど*洗脳*に近いですよね;)

もうひとつ、こういう論争的なヴィデオも目に留まりました:

Une campagne dénonce le sexisme dans la pub http://bit.ly/1TzWZT0

これは僕は80年代からずーっといっていることですが、
たしかに女性の性の商品化、という問題はひとつ大きくある;
しかしその根っこには、人間それ自体の商品化、という問題もあるわけで、
たとえば、この世の中のおよそ全ての男性が、人格など社会からは問題にもされず、ただの会社の仕事をする機械として、
能力や体力や時間を給与と交換しているわけでしょう。

ましてや現在のクラウド商法(*こちらを参照)で
*消費を掘り起こす*ことが素晴らしい!とされる現代は、
社会のほとんどの人たちが、高度に再編成されたある種の年貢を納める封建農奴、
実質、*奴隷*にさえ近い状態におかれている。。。

そしてそれに異を唱えると…もはやこの社会の中には身の置き場もない、というようなことになっているのではないでしょうか。

女のコが女のコであること。女性が女性であること。
自分が自分であることは、常に闘いでしかないのでしょう。
愚かしく、損ばかりする、勝ち目のない闘い、かもしれません。
しかし僕は、そこで闘う人たちに、その勇気に、やはり胸を打たれるのです。


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